てっぽうでんらい
種子島 種子島酒造
2年間甕壷で熟成した、スッキリとしてキレの良い鹿児島限定の芋焼酎
●種子島の西之表市にある種子島酒造は明治36年(1903年)創業という伝統のある蔵です。
蔵のこだわりは、「かめ壺仕込み」と原料となる「サツマイモ」です。
蔵では「曽木農園」を設立し、栽培面積を広げながら原料芋の生産量を増やし全て自社農園産のサツマイモを使った焼酎造りを実現しています(農園は、安納地区を中心に20か所以上 計60haになるそうです)。
焼酎造りの工程ででる焼酎粕を堆肥として再利用し、減農薬・有機栽培を徹底し 高い品質の原料芋つくりを目指しています。
蔵の焼酎は、白豊芋・種子島紫芋・安納芋の3種類の芋からつくられています。
蔵では、伝統製法「甕壺仕込み」を守り続けています。
●「鉄砲伝来」は、自社農園で栽培した「白豊」芋を原料にしています。
白豊は「白千貫(シロセンガン)」ともいい、「黄金千貫」芋よりも澱粉質が多く甘味があります。
一次、二次とも甕壷で仕込み、原酒を2年間甕壷で熟成させて仕上げています。
割り水には、約3千年前の古第3紀層の海底から汲み出した鉄分の少ない清らかな天然深層地下水(岳之田湧水)を使用しました。
ほのかな甘い香りに、スッキリとしたキレの良い飲み口に仕上がっています。
飲み飽きしません。
●ストレート、ロック、水割りのほか、お湯割りもいけます。
○鹿児島限定の芋焼酎です
1543年種子島に漂着したポルトガル人が、鉄砲を、領主種子島時堯(ときたか)に伝えたといわれています。
その当時の記録「鉄炮記」(1607年)が残されています。南浦文之という禅僧が、種子島久時の命をうけ、作成しました。
概要は次のようです。
天文12年8月25日、種子島の西村小浦に1隻の大船が漂着した。どこの国から来たかわからないが、船客は100余人、その服装は異様で言葉も通じない。さいわいにそのなかに明の儒生五峰(じゅせいごほう)という者がいて、西村の主宰織部丞(おりべのじょう)と砂上筆談し、これが「西南蛮種之賈胡(ここ=商人)」であるとわかった。
(中略)領主時堯はこれらの人々を引見したが、その長たる者は2人で、1人は牟良叔舎、他の1人は喜利志多侘孟太といい、手に一物をたずさえていた。
長さは2、3尺、まっすぐで中空であった。しかしその底は密閉され、その傍には火の通る穴がある。用うるときには妙薬を入れ、小さい鉛の丸をそえる。
穴から火を点じて発すれば雷のとどろくような音をだし、耳を覆わざるをえないが、小さな標的でもかならずあたる。
時堯はこの稀世の珍品の名も用途も知らなかったが、感嘆おくあたわず、万金をもってその2挺を買いあげ、火薬の調合法を家臣の篠川小四郎に学ばせ、みずから射撃術を習い、百発百中の技量に達した。
このとき、紀州根来寺の人が千里を遠しとせず、鉄砲 をゆずってくれるよう懇望してきたので、時堯は津田監物丞を遣わして一挺を杉坊に贈り、使用法も伝授した。
一方時堯は鉄匠数人に命じ、そっくりの模造品をつくらせた。しかしその底の塞ぎかたがわからなかった。
ところが、翌年またこの「蛮種賈胡」がやってきたとき、そのなかに一人の鉄匠がいたので、時堯はよろこび、金兵衛尉清定に命じて、底の塞ぎかたを学ばせた。
そこで1年あまりのうちに数10挺の鉄砲ができあがった。(略)
その後、種子島に滞在していた和泉国堺の商人・橘屋又三郎が鉄砲を学んだ。彼は帰ってから「鉄砲又」とよばれるほどで、畿内近国の者はみなかれから学んだ。
このようにして、わずか数年の間に2挺の鉄砲がたちまち66カ国にひろまり、諸国の鉄匠はその製法を身につけるにいたったことを思えば、わが種子島はまことに鉄砲の発祥地というべきだ。(「鉄炮記」より)
度 数:25度
原材料:さつま芋 米麹(白)